日常というのはどこまで行っても日常であって、到底歴史を揺るがす出来事が自分の身に起こるとは思えないのである。
日常から非日常的な犯罪に走ることはたやすいことである。ただ、日常に回帰することは非常に難しい。それを知っているからこそ、自制心が働くのである。しかし、非日常的なモノに慣れてしまった場合、その境目が失われ、自制心が働かなくなるのだろう。
何が良くて何が悪いのかと言うことを判断できないのも同じで、家庭で怒られずに育つことでその判断をせずに成長するからだ。
そう考えるとただ平凡な日常が続くことは良いことなのだ。これが普通なのだ。
ヒットラーが「大衆はブタだ」と評した意味は今の日本を見ていれば単純明快だ。特に、政治家・官僚は明治時代からすでにそう思っていたはずだ。
知能のないものを導くために強力な官僚機構が作られたわけだが、それにどっぷりと浸かって歪んだものにも気づかなくなっている。
毎週のように発作的な殺人事件が起こっている。必然性のない単純な犯行であるから防ぎようがない。これが今の日本の歪みが産み出した結果に違いない。
正直に思うところ、ショック療法以外に日本は立ち直れない。それはクーデターに等しいパワーとカリスマ、即効性がなくてはならない。しかし、戦後50年を経て牙を失い、心も乾き、足腰の衰えた者たちに何ができるのだろうか。
今日は朝から雪が降っていたが、晴れたり雪が降ったりとコロコロ天候が変化していた。
今日はバイオハザード2の発売日。しっかりはまっております。なかなか区切りがつけられないので止めるに止められないというのもある。
それにしても今夜は寒いぞ。
今日も草津へ。カーナビを取り付けてもらう間に、「ジョルナータ」へ行く。12時前に入ると余裕で座ることができた。
「牛肉と白いんげんのトマトソース」のパスタランチ(\1000)と「地鶏のローストサラダ風」(\800)を食べた。
ランチはいつものように大盛りの有機サラダとフランスパン2片、デザート(ムース)、デミタスコーヒーが付く。パスタはたっぷりのトマトスープとホールトマトの中にどっさり、上には柔らかく煮込んで崩した牛肉がトマトと一緒にかかっている。白いんげんは所々に浮いていた。体は温まるし、お腹も満腹になる。もちろん、味も濃くて良し。煮崩した牛肉も味わいがある。
もう一つの前菜は地鶏を手でちぎってイタリアンドレッシングと粒マスタードと緑のバジリコみたいなものでまぶしてある。熱くも冷たくもない。味は非常に淡泊で時々マスタードの風味がする。これも少し量があり、パスタと一緒に食べるには多すぎた。二人以上で分けて食べるのがベストだ。
その後、時間をつぶすためにセガ・ワールドへ入った。今回も「House of the Dead」に挑戦する。また、千円使って、2つ目のボスキャラまでだった。ここで、100円を入れたのにコンティニューができなかったので、100円を取り返そうと店員に聞いたら、機械を操作してクレジットを登録してくれた。でも、千円も使ったとはいえ続きからはできない。そこで、目一杯の9クレジットまで入れてくれた。ようするに900円分を入れてくれたのだ。今度は1回のミスだけで2つ目のボスへたどり着いた。で、結局3つ目のボスキャラで終わってしまった。遅刻しといて、一言注意されて教師を刺し殺す中1生を作ったのは誰だ。家庭で怒られないから、ちょっとしたことで自分が押さえられなくなる。
大蔵官僚が自殺した。誰のために自分を押し殺す必要があるのか。国民のためではなく、上司のために最後の行動を起こすというのはすでに根本から外れているのだ。
今の日本社会は新旧の馬鹿どもに溢れている。
コンビニに入って真っ直ぐに迷わずレトルト食品売場にたどり着いたとき。悲しいものがある。
大蔵省の官僚が収賄で続々と捕まっている。金銭でなく、接待なら収賄にならないなどと言葉を弄し、百万円単位で接待を受けていたのだから当然のことだ。
しかし、企業に対しては接待交際費に課税をして、悪しき商習慣などとほざいていたのだ。
官僚なんて自分のことしか考えていないのだ。自分たちのために抜け穴のある法律を作り、言葉を作り、仕事を作っているのだから。
彼らに税金を預け、養っていることを忘れてはいけない。
風呂に入りながらテレビを見たい。時々そういう時がある。せめて音だけでも良いのだ。
風呂の外でラジカセを鳴らしてもシャワーを使うと聞こえなくなるだろう。そこで、浴室全体に音が響くような方法を考えた。
スピーカーの先を吸盤にしてその中から音が出るようにしておく。それを浴室のドアのガラスにくっつける。そうするとガラス戸に振動が伝わり、浴室全体に音が反響するのではないだろうか。
どこかでこんなお気楽な売れないものを作ってくれないかな。
仕事が終わってから家に帰ってくるまでにちらちらと雪が舞い始めた。夜になってカーテンを開けてみると猛烈な勢いで雪が降り続いていた。明日の朝は大変だ。
今年に入って初めての雪。今季、まともに雪らしく積もったのも初めてだ。さて、これを初雪と言うのかどうか。
気象では初雪というのはその年の最高気温を記録した後の降雪を初雪と言う。そうすると、去年の初雪は去年最後の雪だったことになる。もし、12月に雪が降らなかったら、繰り上がりで1月の雪が初雪になるのだろうか。
ともかく、結果は年が明けないと分からないのである。何でもう来年の話なんだよ。
西田敏行はCMのイメージキャラクターとしては非常に良い。しかし、何故か彼の出ている企業は実はあくどいとこが多い。
朝日ソーラーが昨日、業務停止命令を受けた。かなり強引な押し売りで、同じ年寄りに同じものを3つも売ったりしていた訳だが、それでも相変わらず強引な押し売りを続けていた。今まで放置していたことが問題だ。
大東建託も、かなり強引に土地を借り受け、手抜きした建物を建てさせては、管理料を取っている。建物が手抜きなので借り手が減り始めている。結局そのツケは地主がかぶるのだ。
テレビなどの知名度だけでその企業を信用してはならない。特に建築・不動産業でテレビCMをやってるところにろくなところはない。中には、大量に金を集める自転車操業型の企業もあるからだ。
結局のところ、個人がなかなかそれら業界の内部を知ることはない。しかし、イメージよりも、派手な宣伝よりも、些細なサービスに心を砕く企業を見つけて欲しい。
今日は、ジョルナータでランチを食べた。やはり12時台は混んでいる。ランチのボロネーゼ(\1000)を食べて、映画の時間まで向かいのゲーセンで「House of the Dead」をやった。ここで、1100円も使ってしまう。
映画は「THE PEACEMAKER」(監督ミミ・レダー)だ。主役のジョージ・クルーニーはおいといて、ともかくニコール・キッドマンが見たかったのだ。映画館では「デイズ・オブ・サンダー」以来だが、「遙かなる大地へ」もLDで見ている。どちらともトム・クルーズとの共演である。この2作の間に二人は結婚した訳だ。それ以後も活躍はしていたようだが、あまり知らんかった。
それで、久々だなぁと思って映画を見に行ったわけだが、複雑なストーリーではなく、アクション映画としてスムーズな展開で楽しめる映画だった。2時間の映画は実にあっという間に終わった。
オープニングシーンでの夜襲部隊が出動するときに一斉にレーザースコープのスイッチを入れて赤い瞳が輝くところから緊張感が膨らむ。核爆発も凄かった。ラストももうちょっとひねりが欲しかったなぁ。でも、どんどん展開が進んでいくので、余計なことを考えている暇はない。謎解きがない分、ドキドキハラハラが最後まで持続するのだ。
それにしても、ニコール・キッドマンってあんなに子供っぽい顔だったかなぁ。髪を短くしてずいぶんと爽やかになったけど。夕食は早めに「ポポラーレ」で、「チキン・ポテトフリッター添え」(\700)「ラザニア」(\900)「カフェ・オレ」(\400)を食べた。
ともかく、ラザニアが食べたかったのだ。チーズたっぷり、トマトソースとホワイトソースが板状パスタでサンドされている。見た目以上にお腹が膨れる。
野村証券の元副社長らが逮捕され、現社長は頭を下げながらも、調査中だの、賄賂性は薄いだのとごたくを述べている。
ああいう頭の弱い男が社長にいる限りは山一証券の後をたどることになるだろう。まあ、退陣はしないらしい。
しかし、社会的責任をまったく感じていないようだ。会社ぐるみでやっていることを今更調査するまでもなく知っているはずだ。それを「公務員に対する接待は慎重に」などと社内通達を出していることすらおかしなことで、今まで接待をしていたことを明らかにしている。第一公務員相手に接待をしていること自体に問題があるとは、もはや感じていないのである。
そんな男が社会的、道義的責任を見せることはできないだろう。責任とは役を辞することではない。問題に直面しても逃げないことなのだ。まさか、建前の言葉だけで騙せる国民だとなめてんじゃねぇのか。
日本ではソフトウェアの価値はまだまだ低い。そして、ハードウェアへの偏重が強いのだ。
例えば、自動車。交通安全のために最も重要なのは車に安全な装備を増やすことではない。交通安全のためにブレーキを踏む人間を育てることが最も大切な意味を持つのだ。
結局、その目的を果たすために、その理由を考えさせて学ばせることよりも、ともかくハードウェアとして用意して買わせるというのだ。これは消費者の負担を増やすだけなのだ。
消費者、ひいては納税者の負担を無視するから、新幹線とか国会機能移転などということを時期も考えずに論議できるのだ。
便利なモノを作ることよりも、不便なことを楽しめる雰囲気作りがいかに重要かを知るべきだ。
近所に行くのに車を使う必要はない。ガソリンを消費して空気を汚す必要はないのだ。それよりも、歩いたり自転車に乗って、ゆったりと時間を使うことで目の端々に季節を感じることの方が楽しいはずなのだ。
昨晩、映画を見ている途中からお腹が痛くなり、朝から体がだるい。
昼間で寝て、起きあがれるようになったものの、温めた牛乳を飲んで再び布団に入る。
夜になってようやくチキンラーメンを食べるが、汁だけ飲んで半分残した。
風呂であったまって寝よう。しんど・・・
久々に飲み過ぎた。水割り3杯にウォッカベースのカクテルを3杯。京都に0時に到着し、4時まで飲んでいた。昼間でグッタリだ。
3時半まで家にいて、それから友達と3人で草津へ向かった。
途中、郵便局で $200 の小切手を送金し、98のキーボードを買って、プレステの修理品を受け取って、Aスクエアへと着いた。
その後、もう1人合流し、映画「TITANIC」を見に行った。監督は「ターミネーター」のジェームズ・キャメロンで、3時間の大作だ。
出だしは以外だった。沈没したタイタニックの調査から始まって、それが30分程あったろうか。これが、ドキュメンタリー風の映像になっており、回想として始まる沈没の悲劇が真実の映像であるかのように雰囲気をつなぐ役割を持っていた。
回想シーンが始まると、ありがちなラブロマンスのようでもあるが、生き生きとした豪華で美しい映像はもの悲しくもあった。
そして、後半は船の沈没である。実際にも沈没まで2時間半あったようだが、映画の中でも1時間から1時間半はあったろうか。ともかくも、スケールの大きさもしかりだが、鬼気迫る映像は本当にその現場を目撃しているようだった。歴史の証人としてその場にいる気分になったのだ。
すさまじい迫力を持ってタイタニックは沈没へとひた走る、その中で愛を貫く2人の姿は感動的なのだ。
男4人で見に行ったが、それでも良い映画には違いない。もう一度見てもきっと面白いだろうと思った映画だった。実際のタイタニックの情報はA Tribute to the TITANICへ。
成熟した社会とはどんなものだろうか。自分を磨くのは当然のことだが、人を育てる社会ではないだろうか。
日本の社会も、業界も、企業も果たして人を育てているだろうか。何より最近は学校も、家庭も人を育てる場ではなくなっていないか。
日本の社会。まず、政治家が国を育てようとしていない。私腹のために何でもするが、国家のために犠牲になれる人物はほとんどない。
日本の業界。横並びの状態を維持し、利益が各企業にプールするように画策する。談合などは当たり前、消費者こそ彼らの消費物のように扱われる。
日本の企業。社員は歯車であり、決まった方向にさえ動けばよい。自ら育たぬ人間は枯れ行くのみ。
日本の教育。長所も短所もいらない、あってはならない。軍隊の名残は制服だけではない。少なくとも何をなすために生きるべきかを学ばせるべきだ。
日本の家庭。教育によって腑抜けた大人たちが更に腑抜けた子供を教育する場となっている。悪循環の終着点、そして、新たな出発点となって行く。
このどれもが別々に存在するわけではない。同時に時間を流れながら、常に循環を繰り返しているのだ。家庭、学校、企業へと生活の範囲を広げ、企業、業界、社会へと責任の範囲も広がっていく。しかし、自分にさえも責任を果たせない人物がこの流れの中で大量生産されている。
気付いたときには後戻りできない。いや、もう後戻りできないことばかりが起こっている。
郵便番号が来月2日から7桁になる。職場の顧客名簿も少しずつ直しているが、かなり面倒である。
京都などは、通りの名称が簡素化され、町名で書かれているのでややこしい。
郵政省は経費の削減ができると言っているが、本当はそんな気はさらさらないのである。
番号読取用の機械が1台1億円から3億円するという。それを10年間で1000台購入するそうだ。なんだかんだと、4800億円程度の予算を使うらしい。それで、郵政省からどれだけの人員が減るというのだろう。おそらく一人もリストラなんてされないのだ。
できないことを、理想に掲げて、これまた、努力もせずに出来なかった、すみませんで終わりだ。現場の人は汗を流して働くが、それを良いことに官僚は、彼らの努力に報いるためにリストラできないなどと言うだろう。それじゃ、リストラってなんやねん。
しかも、企業や地方公共団体はハンコや封筒を印刷し直すために数百万単位の支出もあるという。全国で多くの無駄なお金が、景気対策に役立つじゃないかと、官僚のお為ごかしに役立つのだった。そういう無駄が物価の底上げをしとるんやって。
今、医薬業界ではMRという営業担当者はリストラの矢先にいる。薬価基準の見直しと、その業務を見直しされ、人員も削減されるのだ。そもそも、彼らが病院の薬剤購入担当者への接待をする役割をしていたため、薬の値段を高くする必要があったのだ。
結局、最後は消費者が損をしているのだ。しかし、全ては売る側(サービス提供者)の理論だけで値段が決まっていたのだ。
これからは買い手主導の価格決定を行わないと企業も業界も生きていけなくなるだろう。役所も、関係ないとタカをくくっていてはいけない。俺は少なくともお上とは思っていない。市民サービスの担い手なのである。少なくとも収入の2割は税金に消えていく。お金は使うモノだから、使った5%は消費税で持って行かれるため2.5割が税金と言っても良い。25%、1/4と考えれば非常に高い税率だ。比率でモノを言えば、国家予算の1/4に対しては権限を有すると言っても過言ではない。役人に対して、おのれらの給料の1/4は俺の給料の1/4に相当すると言ってやりたい。
元の話に戻すと、機械を入れて人間の作業を効率化すれば、無駄な人員が必ず生まれる。それらに給与を払い続ける限り、機械を買った分だけ無駄を作ったことになる。どっちも無駄だが、最終的には人員を切らなければマイナスはプラスに転じることはないだろう。
それを知っててもやらないのが、役所の賢いところだ。そして、それを追求しないところが日本国民の良いところだ。どちらも大馬鹿者である。
今日は初出社、そして、伏見稲荷への参拝だった。
おみくじをやってみた。大吉だった。どうにも都合の良いことばかり書いているが、いくらなんでもと思ったりして。
信心深くはないのだが、都合の良いことは信じるに限る。都合の悪いことは忘れる。これが前向きに気分を高めるコツでもある。
さてさて、今年もやっと動き出したという所だが、明日から早速大忙しだ。
今日は楽しい出会いがあった。
人生の岐路には色々あるが、そういうときこそ人は輝いていなくてはと思う。
前向きに、人生を選択できることは喜ばしいことだ。
そういう機運を持たせることが政治の責任でもある。
今日は守山の「プレェーゴ」へ行った。一昨年の年末以来だ。その時はディナーだったが、今回はランチだ。
ビルの2階にあるため見晴らしは良い。まあ、大したモノは見えないが、店内は大きなガラスで明るく、所々に配置した装飾品も素朴でよい。
さて、ランチは\1000で、パスタとピッツァが各2種類用意されている。コーヒー、エスプレッソ、紅茶はプラス\200、ドルチェ(デザート)はプラス\400だ。
まずは、前菜の代わりにミネストローネを取った。細かく切られた野菜がたっぷり入っている。始めはやや薄く感じたが、徐々に濃い味になった。
本日のパスタはバジリコのパスタだ。オリーブオイルに生(?)のバジリコをたっぷり混ぜたソースのパスタだった。これで松の実が入っていれば抜群だったが、どことなく風味がするので、もしかすると細かく潰して入っていたかもしれない。ともかく、バジリコだけのシンプルなパスタだが、結構クセになるかもしれない。
テレビで「ジュラシックパーク」を放映していた。最後にエンドロールが流れた。
スピルバーグの意向ということだが、全ての映画にエンドロールがあるわけだから当然だと思う。
映画を見に行っても、必ずエンドロールの最後まで席についているのは、制作者たちへの礼儀ではなかろうか。そこまでが、一編の映画だと思う。
アメリカ映画に比べ、日本映画はオープニングは長く(?)、エンディングは短い。重要にしている点が違うからだ。
日本映画は、作品よりも出演者を優先する傾向が強い。だから面白い映画はできない。映画を売るために出演者を利用する方にも問題がある。
アメリカの映画は、作品の内容に重点がある。もちろん、出演者の魅力もあるが、彼ら自身が作品として魅力のない映画には出演しないから、良い映画でないはずがない。
ともかく、映画に対する姿勢を改めるためにも、エンドロールはいつも放送して欲しいと思う次第だ。
NHKで「機械生命の新世紀」という番組をやっていた。
その中でマサチューセッツ工科大学のマービン・キンスキー教授の話が実に面白かった。
ロボットの運動性能を研究する学者は世界に2万人いるだろうが、ロボットに常識を持たせる研究をしている者は10人ほどしかいないだろうという。
ロボットには5才程度の子供の問題を解くことが出来ないそうだ。自分で自分の置かれた状況を判断して行動することはできないというのである。
最も大切なのはロボットに常識を教えることだという。ヒモを使って引っ張ることができ、押すことはできないということは子供でも分かる常識だという話だった。また、積み木を高く積むと崩れやすいが、ピラミッド状に積み上げることで倒れないのだという常識を私たちは知っている訳で、そうした数々の常識を組み合わせて状況判断をすることができるのが人間なのだ。
おそらく、常識のパターンを幾つかに分類し、最も小さな単位を組み合わせることで様々な状況判断をさせるようになるのだろう。
もう一つ面白いと思ったのは、ロボットが感情を持つということはあるのかという質問に、彼は感情と思考は別のモノではなく同じモノと考えた方が良いと言っていた。
人間は怒っているときには、即座に今の状況に合わせた決断を下す。また、恋をしているときには、自分の状況を後回しにしてでも、相手のことを考える。という例をもって、これらは感情によって思考の優先順位を臨機応変に変化させているだけだと言うのだ。
そうすると、思考の優先順位を決定するための状況判断を感情によってコントロールしていることになる。感情とはコントロールできないモノではなく、状況に合わせた必然的な条件反射とも考えられる。
続けて、ロボットに意志を持たせることができるのかという質問にはこう例を取っていた。
もし、100km離れた場所まで飛行機を使わずに走っていこうと考えたとする。すると、別の思考がそれは無理だ。とか、それは面倒だというように、批判的な思考が生まれることが意志があるかどうかという基準ではないかと言うのだ。
ただ、単純作業のロボットに意志があると、この作業には飽きてしまったと思ってさぼってしまうだろうから、必要ないということだった。
もし、ロボットが意志を持つことになった場合、それを支配しようとするのではなく、一種族として人類に迎えることが必要になるだろうと言っていた。
実に面白いインタビューだった。後半は質問に対して返答しただけであったが、彼の研究テーマよりも人間についての洞察力の深さに驚いた。