今日は信楽の「木になる木」へ行きました。雑貨の置いてある喫茶店という感じですが、メインはパスタ料理のようです。
1300円のパスタに昼はサラダとコーヒー付き。しかし、その量はとてつもない。普通の2倍、いや3倍はあるのでは?
直径30cm程の皿がパスタで埋まっている。こんなにあると、途中で飽きてしまいそう。4人で3皿だったので、まだ何とか食べきりました。リゾットも食べたけど、こちらは魚の出しで煮込んだご飯という感じでしょうか。パスタより先に出てきたので、米から出汁で炊いていないようです。
パスタは、きのこ、エビのクリームソース、ナスとベーコンのピリ辛の3つ。どれもやや甘さがあった。ピリ辛はさすがに辛さが後から襲ってきたけど。
雨の降る中、お昼の次はミホミュージアムへ。入場料は大人1000円。
駐車場(無料)の近くにあるレセプション棟でチケットを買い、そこから電気自動車に乗って、間接照明が幻想的なトンネルを抜け、吊り橋風の近代的な橋を渡って美術館の前に到着する。
この山中にある美術館は、石のタイルを床と壁に敷き詰め、天井と壁の一部はガラス張りという豪華な作り。さすが、ルーブル美術館のガラスのピラミッドと同じ建築家が手がけただけのことはあります。
常設展示はエジプトやシリア、ローマの装飾品が多く。貴金属や宝石でできたものが多くあった。
特別展のガラス工芸も見応え有りました。ガラスと言っても「Ancient Glass」と銘打って、1000年とか2000年も昔のものがずらっとあります。
日本の美術品のコーナーも少しありました。そこには、与謝蕪村、尾形光琳らの作品もありました。
さすがに私設美術館であるため、建物も展示の仕方も贅沢です。一見の価値有り。
栗東駅前の「オペラ」に行ってきました。フランス料理、夜の5000円コース。
以外と手が込んでいて、5皿ほどあったので、満足行くボリュームでした。雰囲気も良いです。
ちなみにギャルソンのフランス人は、先日までのフランス語教室の先生です。
さて、コースの内容は、前菜に鴨肉のタタキみたいなので1皿。次に、アボガドと海産物(エビ、ホタテなど)をオレンジのゼリーに閉じこめてオレンジソースをかけた1皿。
スープは、マナガツオと何とかのスープ。角切りされた鰹の身もやらかくて良いが、とにかくスープが美味しい。こくがあって後引く海のブイヨンって感じ?
次にメインの1皿目、スズキのパイ包み焼き。身がしっかりして淡泊なんだけど、癖がない分、ソースと絡んで美味しいのだ。
メインの2皿目は、ステーキです。濃そうな色のソースが全然しつこくなくって良かった。
最後にデザート。林檎のタルト、レモンのスフレ、アプリコットのソルベでした。どれも一工夫有るように感じました。
これは、どうりで、昼も夜も予約で一杯のはずです。今度は昼の1800円コースに行ってみよう。
NTTが毎年世界中の関連企業へ何兆円という投資を行っているが、これらはもちろん、国内の利用者から得た利益を投資しているのだ。
本来、還元されるべき国内の利用者が、欧米の3倍とか6倍という通信料金を支払い。その利益で彼らの安価な通信環境が整備されているとも言える。
しかし、NTTは営利企業。昔の国営なら文句も言いようがある。
さて、NHKも約300社への投資をしていることが明らかとなった。果たして彼らは営利企業か?
上層部の人間がどれだけ浪費を行っているか、様々に問題となっている。受信料を強制的に集める様は押し売りと言うより、マフィアの用心棒代のように、理不尽だ。
そこには民間企業との公正な競争はない。もし、営利企業でないのなら、利益を生む投資は必要ないはずだ。あくまで顧客のための設備投資のみ許されるべきこと。
NTTもNHKも、結局は役人と同じで、公共のためにと言いながら、私欲を肥やしているに過ぎない。
公益事業は利益を出すことが目的ではなく、限られた資源を有効に使うことが目的なのだ。そうでなければ、集めた税金をばらまくのと何ら代わりはない。国や公共団体が税金以上にお金を使っているのだから、どっちも同じか。
彦根の県営球場で、阪神−横浜のオープン戦を観戦した。
6対9と、何とも嫌な展開で負けた。球場が小さいので、とにかくヤジが響く。なんともやる気がなくなりそうな、気分だった。
帰りは名神の多賀SAで休憩、店舗の工事をしていてロッテリアの看板があった。多賀はうどん類もちょっと高かったので、ロッテリアは良いかもしれない。
さて、夜はフランス語講座。今日が最終日だ。
全然、習ったことが頭に入っていない。意味は分かるが、記憶ができない。とにかく、時間を掛けて慣れるしかないと思いつつ、フランス語を勉強しだして来月で4年目に突入だ。
そろそろ本格的なレッスンが必要かな?
自分の欲しいものが目の前にある。短絡的に考えれば、欲しいものは取ればよい。しかし、様々に思考を行えば、それが誰のものか、何故そこにあるのかというような物事の背景に考えが及ぶはずだ。
赤い果物をこれは「リンゴ」だと判別することは容易であるかもしれない。しかし、これが「リンゴ」以外のものではないといくつもの果物と判別するには非常に労力をようする。
この大きな違いは「リンゴ」だけを考えているか他の果物のことにも思考が及んでいるか、これが思考の深さの差となる。
人に気遣いを行ったり、常識的な判断には、このような深い思考が必要となる。赤ん坊は最初寝返りすらできないのである。しかし、毎日何度も挑戦し、失敗を繰り返して、ある日、寝返りに成功する。そうすれば、もうほとんど失敗はしない。
経験によりコツを掴んだのである。これが学習なのだ。
記憶を詰め込むだけで経験を踏まずに学習したとすれば、成功までの様々なステップを知ることはできないだろう。短絡思考は単に学習能力の問題ではなく人間形成やモラルにも影響を及ぼすのではないか。
失敗は必要なストレスであり、その経験を積むことでストレスに強い心が育つのではないだろうか?
短絡的なストレスの少ない学習を繰り返していると、大きなストレスを処理できなくなってしまう現代病を生んでいるように感じる。