フェーン現象による大雨が、ペルーの砂漠に湖を作ったという。それも幅40km、長さ80km というから水たまりと笑ってられない。自然とはこれほど驚異的なのである。これが都市部であったらパニックどころではない。
一昨日から下の奥歯が痛み出した。久々に歯医者へ行ってみた。
痛いといや痛いのだが、ほとんどの時間は痛みがなかったので、軽い気持ちで歯医者へ行った。上の歯に穴が開いているようだったのも気になったからだ。
しかし、いざ見てもらうと上の歯は相当に悪いらしい。でも、実際に痛みがあるのは下の歯だった。レントゲンを撮って見てもらうと、やはり下の歯は付け根が空洞になっていることが分かった。痛いはずだ。
歯の表面には昔の小さな虫歯を覆ったプラスチックがあったらしいが、それが取れて奥へと虫歯が進行したというのだ。しかも、神経が剥き出しになっているという。確かに、中をいじられて激痛に痺れた。
寝た子を起こすような結果ではあるが、これをほっておいたら取り返しの付かない激痛が襲っていたことだろう。
歯医者はやばいかなと思ったらすぐに行こう。以外と若くてかわいい歯科助手の女の子がいることも付け加えておく。
今日は昼から草津へ出かけた。カーナビの無償交換のためである。
昼食は「ジョルナータ」でペンネランチ(\1000)だ。
ペン状のパスタ・ペンネとほうれん草の入ったトマトソースで、ホールトマトがどっさり入っている。もちろん、これにサラダ、デザート、コーヒーが付いている。
そして、草津税務署で確定申告に行く。時間はかかったがとりあえず、5000円が戻ってくることで申請完了だ。
映画館に寄ってみたが、良いのがなかった。「Face/Off」が見たかったのだが。
商店街で、散髪1500円という看板を見つけた。余り愛想は良くなかったが、手際は良いし、帰りはちゃんと声をかけてくれたのでまた来ようと思う。手順は分担されていて、座席に座ると前掛けとかしてくれる人、カットしてくれる人(後ろでタバコ吸ってかったるそうにしていた)、かみそりをしてくれる人が順次作業をしてくれる。
夕方まで電気屋で「ブレードランナー」を見て時間をつぶさせてもらった。
晩は栗東の「泰平」で中華をいただく。二人で7・8品食べたが5600円だった。なかなか安くて良い。
カーナビの取付作業が完了したのは夜の8時だった。ごくろうさま。
日本の消費者はセコイが為に損をしている。セコイだけでなくてバカなのだ。
当面の自分の利益のために他人が犠牲になることは気にならない。でも、自分も犠牲になっていることには気が付かない。
インターネットで見つけた安い店の見積書を持って、近くの店で値段の交渉をするなんて以ての外だ。そのせいでメーカーの圧力で商品を値引きできなくなった店がある。これはバカな一人のために、全消費者が損をしていることになる。
日本はメーカーが平気で値段の高値維持を画策する。それに手を貸すバカな消費者もいる訳だ。第一、その見積もりで安くなったとしてもその店では嫌われるだろう。余りにもセコイからだ。
日本人のセコさは、ただの倹約ではない。コスイのだ。ずるいだけで、一貫性もないので損得の勘定ができない。ただ、無理強いをして要求を通せば得したと思っているのである。
ともかく、何でも値切らないと気の済まない人がいる。買う買わないの前に、値切るところから始めるヤツは嫌らしい。特に、「で、なんぼや。なんぼにしてくれんのや」と自分の手の内は見せずに、値切った値段ありきで話を切り出すヤツほどいけすかんヤツはない。ハイエナ以下の輩である。
値切りは買う意思を明確にした上で、この値段なら買うと明言して、駄目ならきっぱり(買うことか値切ることを)あきらめることが肝心だ。そうすると気持ちよくモノが買えるのである。
ただ、モノの値段を自分で見切れないヤツは見苦しいだけなので、おまけか端数程度にしておこうな。
小学1年生の時、IQテストの中に迷路があった。それ以後、しばらく迷路に没頭した。
50ページはあったノートの前ページに迷路を書き連ねたこともあった。「ハンド・オン・ウォール」という迷路を解く方法も知っていたので、様々な工夫を凝らしていた。迷路は入り口から左右どちらかの壁を伝っていくことで出口へと向かうことができる。入り口と出口が外壁にある場合は必ずこの方法で解くことができるのだ。
そこで、いくつものゴールを迷路の中に作り、次のページにその続きを解くという方法で複雑な迷路を構成した。それにしても、ノート1冊を迷路で埋めるには膨大な時間を費やした。ともかく暇があれば迷路を書いていたのだ。模造紙まで買ってきて巨大な迷路を造った。
もちろん、それらは自分が遊ぶわけではない。学校でクラスメートにどこまで行ったかを競わせるのだ。
インターネットでホームページを作るのも多くの人に趣味を通じて楽しんでもらおうという気持ちである。迷路を造っていたころもそういう楽しみがあったのである。
今日は早朝からスキージャム勝山へ行った。名神の竜王から北陸自動車道の福井北まで2時間、そこから東へ30分で着いた。
そこに着いてブーツを忘れたことに気が付いた。レンタルで2000円は痛かった。回数券は3200円で5枚綴り、一日券は4200円だった。
縦に長いコースが5本ほどあって、中級コースの中にコブの部分が少しずつ混じっている。適度に迂回コースも用意されていて、どうしてもコブが行けないという人も楽しめる。ただ、今日は天気が良すぎて、雪は全体に押しつぶされ、表面はシャーベット状であった。昼を過ぎると疲労もあったが、雲のない快晴のためにますます雪が重くなってしまい、コブの間で板が回転しなくなってしまう。
帰りは福井北ICまで渋滞のため1時間半かかった。名神も所々渋滞したが、2時間少々で戻ってきた。そして、すぐさま草津の「ジョルナータ」へ行く。
夜に来るのは初めてであったが、パスタは種類が少ないからランチで用意されたモノと同じモノしかない。アンティパストに「サルモーネ・アッレ・エ??」(\800)という鷹の爪を入れたトマトソースに浸したサーモンの切り身にモッツァレラチーズを乗せてオーブンで焼いたものを、パスタはオーソドックスに「ボロネーゼ」(\1200)にしてみた。
サルモーネは温かいモノを想像していたが、冷たかった。でも、ピリッとしてボリュームもあって美味しい。
ボロネーゼは言うまでもなくミートソースだが、挽肉とオリーブオイルだけのソースであって、トマトソースは入っていないのが本物である。量はランチと変わらないので、200円安くてサラダとデザートとコーヒーがついているランチの方がお得だ。それにしても、ミートが余ってしまうこのボリュームは言うことなしだ。パスタは生麺で腰があってプリプリとした食感。乾燥麺とは違いアルデンテという状態はないのが残念とも言える。
やっぱり、店員にいつも来ていると覚えてもらっていることはうれしい。どの店員も動作がキビキビしていて、言葉もハッキリとしているし、受け答えも必ず声を出して即応してくれるので気持ちがよい。
同和地区の写真展が大阪で開催されている。ニュースでは同和地区へ行ったことがない人がアンケートで70%もいたと言っていた。
同和問題とか同和地区などと特別なもの言いそのものも疑問だが、同和地区を知らない人にアンケートを取ったところで意味がないのではないか。それにわざわざ行こうといって行く方が失礼だ。
同和地区だから生活が困窮しているというのだろうか。その現状は分かるすべもないのだが、知らなければそれで普通に付き合えるのではないだろうか。
小学校の道徳の授業で初めてその存在を知ったとき、同じことを考えた。確かに過去には様々な問題があったろうけど、今の自分にはそれを知るすべもないし、差別の理由がない。そういう若い世代に今、この存在を知らしめることが果たして解決策だろうか。
そもそも、差別を行っているのは当時の大人たちであって、子供ではない。差別をなくすための教育と良いながら、差別の火種を子供に植え付けていたに過ぎない。
問題があると問題視するのならまず自分が率先して差別をしないことである。これ以上のことは望まないが、何も知らない者に差別の存在をアピールすることは愚行であり、差別である。何?またロケットの打ち上げに失敗したって?
これで静止衛星は宇宙のゴミとなったようだ。460億円かけて作られたゴミである。
打ち上げロケットやそれまでの人件費を考えると恐ろしい。
あれだけ釈明の会見で無実だと言い張っていた次の日に国会議員が自殺した。これほど情けないことはない。
自殺などで自分の理屈が通ると思ったら大きな間違いだ。これは人間として最低の行為と言っても決して過言ではない。
国家の3本柱を担う議員が証券会社から金をむしり取るだけむしり取り、嘘を吐いて罪をなすりつけ、挙げ句の果てがこの結果だ。
国民の代表たる人間のなすべき行動がこの程度の自己の欲望だけでなりたっているのかと思うと、何とも情けない話だ。調子がいいのは口だけで、こんな小物とは残念である。検察との大立ち回りをやって、その他の悪事が暴かれるのを楽しみにしていたのに。
今日は夕食を食べに「ピノーリ」へ行ってみた。しかし、満席という看板が掛けられていて、中に入ることができなかった。半分も席が埋まってなかったが、きっと予約が入っているのだろう。以前も入れなかったので、これで2回目だ。
で、久々に瀬田の「マッキー」へ行ってみる。路上に車が並んでいて、店の中も並んでいた。
そして、遺恨のある「ヴィラ・ガリチ」へ行く。以前にも不満の多かった店である。
今回は、ボロネーゼ(\1300)だけを注文した。そして、トイレへ行ってみたら、トイレットペーパーが床まで垂れていた。さすが、である。
で、問題のボロネーゼにはパルメザンチーズがあの嫌な匂いを発していた。これは最悪である。テーブルに自分でかけるためのチーズを置いておきながら勝手にかけるでない。
ソースの味は悪くはなかったが、やっぱりチーズの匂いがトマトの味を消してしまう。また、パスタはゆで麺をつかっているためか、芯がまったくなくて歯ごたえが楽しめない。アルデンテでなくては店で食べる価値はない。
さて、レジでお金を払って帰りかけると友達が疑問に気が付いた。1501円を払ったのだが、1300円に消費税(5%)を足しても多すぎるのだ。
一人店に戻って尋ねてみると奉仕料10%というのがレシートに書かれている。
「メニューにこんなん書いてたか?説明は受けてないぞ」と男の店員に尋ねたが、メニューには載せて無いという。
「じゃあ、勝手に取ってるのなら返してくれ」と言うと、奥のカウンターへと戻っていった。黙って待っていると、男はメニューを整理したり作業を始めた。こちらには待ってくださいの一言もなしにだ。そこで、「どうなってんのや」と2度3度言って、ようやく気づいたように待ってくださいときた。
次にウェイトレスの女が出てきた。
「今まで疑問に言われた方はおられませんでしたし、上の決めたことですから私に言われても分かりません」と言われた。
「じゃあ、俺がその上の人と話せばいいのか?それとも俺が悪いのか?」と聞き返してやる。
「とりあえず、返金します」ときた。とりあえずである。
奉仕料などという料金を払うに値する態度ではなかった。
奉仕料に消費税も上乗せしてあったため計算に手間取っていたので、計算し直して引き算してくれというと、声を荒げて、
「そんなこと言われなくても分かってます」と怒鳴られた。ここまで来ると論外である。
最後に、「ありがとう、良い記事が書けるわ」と言い残して店を出た。
非常に面白い店だ。どの店員も非常に応対が悪く、社員教育が完全にできてない。次から次へと客に嫌な思いをさせてくれる。
それにしても、店の勝手な判断で、メニューの金額に上乗せして料金を徴収することが平然と行われていて良いのだろうか。少なくとも日本人なら疑問に思うべきである。たとえそこの店員であっても、疑問に思ってこのままでは客に申し訳ないと上司に述べるべきである。
ともかく、こうしてとりあえず136円を返してもらった。
結局、期待は裏切られた。今日、こちらから電話をして、電話をするように言ったにも関わらずだ。自ら信用を失うことをしておいて、もはや弁解の余地はない。
守れないなら約束しないことだ。こちらは期待をして、時間を作って待っているのだ。それらを失ったことに対して罪悪感を感じされないなら、なおさらである。
ケンウッドのカーナビは購入以来故障が相次いでいる。先日も2週間の修理期間を与えて、結局原因不明で戻ってきた。これが何度も続いている。
突然、画面が止まって地図が動かなかったり、電源が入らなかったり、タッチパネルが反応しなかったりと様々なことが起こる。しかし、ほとんど原因不明で症状再現せずといって帰ってくる。
今回は戻ってきて2日後に異変に気が付いた。画面の端々が白くにじんだように映っている。故障でないのなら仕方ないが、こうも続くとメーカーに文句の一つも言わねば気が済まない。そこで、購入した電気屋に頼んで電話をするように要請したが、未だに連絡はない。
昨日、電気屋から電話が入り、新品に代えるといが、2万円の取付費をくれという。こっちは金返せと言いたいくらいなのにだ。あくまで謝罪が先である。電話一本することなく、モノで方を付けようとする。しかも、費用の一部負担である。
前回の交渉では新品交換15万円という話だった。それが0になったのは気持ち悪いくらいだ。もちろん、2万円のことはそのときはOKした。しかし、今更である。
時は金なりとよくいったものだが、金で時間は買えないのである。4回も5回も修理のために使えなかったカーナビの為に、労した時間は戻ってこない。そのために俺が2万円を支払うことが正当だとは到底思えないのである。
今日も一日雨だった。仕事は忙しく、お客が絶えなかった。それでも一日エクセルで仕事の計算用シートを作成していた。
以前は DOS の Lotus 1-2-3 をよく使っていたモノだ。あれはマクロも簡単だから、システムが作りやすい。でも、画面のレイアウトに困ってしまう。DOS 画面では文字の大きさが制約されるからだ。そこで、エクセルの出番なのである。
しかし、エクセルでメニューを表示させたり、入力項目を初期化したりする方法が分からない。というより、Visual Basic のマクロを使うほど馬力をかけられないのだ。以前に Visual Basic は触ったが、マクロに関してはマニュアルさえないため何もできないでいる。
アプリケーションも何でもできるように重装備にすると、些細な仕事をさせるのにも深い穴の底まで降りてみる必要がある。そのため、非常に面倒で時間ばかりロスしかねない。その点、1-2-3 は分かりやすかった。
マイクロソフトの策略にかかって、MSオフィスを使っているわけだが、長いものに巻かれるのは大嫌いである。最近、Bangles の Eternal Frame を聴いている。訳の分からないCDで、途中までしか聴いていなかったのだが、2・3曲知っている曲が入っていることを知った。簡単な歌詞で、メロディーを聴かせてくれる往年の名曲と言っておこう。
昨日、読売新聞にこんな記事があった。同僚は要領が良く、仕事中に遊んでいても怒る上司を言いくるめるくらい気が強く、物事をはっきりと言うのだそうだ。それは相談のコーナーで、その同僚と同じように自分も言いたいことを言って、いつも仕事を押しつけられる役から脱したいというのである。
わがままを通して楽をしたいと言うこと自体よく考えれば間違いだと分かることだ。ましてや、その正反対の性格をしていて、ギャップが大きければ大きいほど、周りの反発は強くなる。自分の言いたいことを言って筋を通すこととはまったく違うからだ。
言いたいことを言う方が強いことは事実である。しかし、行動としてやり通すなら、周りの状況に応じた行動が必要となる。いくら、自分の手が空いたからとはいえ、隣の人間が忙しくしているときにあからさまに暇そうにするのではいけない。そういうときに、進んで仕事を手伝うことができる人だけが、時間のやりくりをしても認めてもらえるだろう。
わがままは所詮、それなりのマイナス評価しか与えない。それよりも、与えられた仕事を相手の期待以上にこなす人間の方が遙かに優れている。いつも仕事を任されて嫌だというが、それだけの能力を認められているわけである。仕事をしたくないのなら、サボる方法を考えずに辞めるべきだ。そして、好きなことをすればいい。
仕事をする気があるのなら、与えられた仕事を期待以上にこなして見返してやればいいのだ。最後に笑うことができるのは、口を出す人間ではない、手を動かした人間なのだ。
人間の行動にはなにがしが心理的な要因がある。それは様々な欲望である。
しかし、幽霊にも心理的要因は強い。というより、心理的要因によってのみ存在意義があるというべきか。恨みや未練が彼らの存在の要因と考える。ある意味では、生きている人間側の心理的要因によって彼らが存在しているとも考えられる。
自分の真理状況を鑑として映し出しているというように考える。ようするに、怖いと思うから怖いというヤツで、思いこみが幻想を作り出すということだ。先日も書いたように、サンタクロースも神様も信じる心では見える訳だ。
さて、ふと思ったのはゾンビというヤツはいったい何を考えているのだろうということだ。彼らはどんな欲望に突き動かされてうごめくのか。バイオハザードの中では人を襲い、それを喰らう。しかも、生きている人間をだ。知能のないゾンビが、どうして人間を見分けるのだろうと思ったりする。動物的に動くモノに反応するのか、臭いに反応するのだろうか。
日本の幽霊や妖怪というのは煩悩の固まりのようなモノで、その存在の要因は欲望である。しかし、西洋の妖怪の類は存在の必然性に乏しい。それらが自ら存在し、人間とのいさかいを起こすのである。そこには心の反射がない。向こうからやってくるのである。
実際に生きている人間というのは、肉体的な(物理的な)要因があり存在している。今の医学なら心が無くとも人間なのである。
そして、西洋の妖怪たちは肉体的な要因が、彼らの行動の源となっている。吸血鬼が血を欲するのは食欲ではなく、そういう構造なのである。狼男もそうなのだ。そして、それらの見た目の怖さもあって人間との軋轢に発展する。
日本の霊的存在というのはまったく性質が異なる。個人や社会の風潮をあざ笑うかのように、その人やその時代を映し出しているように感じられるのである。近年は、永田町と言うところに、西洋のそれに近い、金銭欲の輩が住み着いているようだが。(どうしてもこうなるな)
最近どうも、夜更かしが多い。寝る時間は深夜2時を過ぎている。でも、8時半に起きるから睡眠時間は短くはない。でも、だるい。
12時から2時まで、テレビを付けっぱなしにしていると面白い番組がけっこうあるのだ。いつも見てるのに、それがいつやってるかあまり意識をしていないので、いつも同じパターンである。昨日も「パ・パ・パ・パ・パフィー」が1時に始まった。おいおい、もう寝たいのにと思いながら見てしまう。
かと言って、0時に寝ると、朝が起きれなくなってしまう。必ずといって良いくらいの確率で、深い二度寝に落ちてしまうのだ。1時頃に寝るのが体調にはベストのようだ。
最近は、休みの日も午前中に起きているので、寝溜ができていない。休みの日に限って早く目が覚めたり、どうにも寝付けなくて3時を過ぎることもある。インフルエンザの嵐も怖いので、しっかりと睡眠時間を取っておこう。
人間がストレスに襲われる世の中で、動物たちはもっとストレスを感じているのではないだろうか。
ペットを飼うと言う前に、買うという行為は動物がモノとして扱われる瞬間だと思う。やはり、自然の中で生きるべきモノは、人間と同じ生活をさせるべきではない。
特にマンションの中で犬を飼うという行為は犬にとって常軌を逸した状態ではないか。アスファルトの上でさえ本来あるべき姿ではないというのに。
何か間違った常識に慣れてしまっているような気がしないではない。
「水滸伝・天導一〇八星」(Mac版)だが、同じところを何度もやり直しているうちにあっけなく終わってしまった。
思った通り、大したエンディングではなかった。相変わらずあっさり味だ。村岡官房長官?なんじゃそりゃ。いつの間にそんな訳のわからん変な頼りないおっさんが官房長官なのだ。まあ、どの閣僚もせこい顔しかしてないけどな。
自民党の加藤幹事長は太田知事のことを不決断で混乱を招いていると言っているが、NOと決断したのであって、その意思表示を言葉で汚すとは恥知らずなヤツだ。
ああ、ニュースを見てると怒りばかりがこみ上げる。もう俺にかまわないでくれって、俺がかまってしまうのか。
気が重くなるようなニュースばかりが続いている。
子供がナイフを玩んで人を傷つけても、それをとがめる資格のある大人がどれほどいるというのだろうか。
家庭でのしつけが行われないまま、学校へ流れてくる子供たちは目的もないまま受験勉強へと押し込まれる。そこで、大学というカゴに入るための品質検査が行われる。
子供たちは間違いなく大人の行動を真似る。ナイフにしても子供が自ら作りだした訳ではない。
そもそも世の中に良い手本というモノが現存しているのだろうか。
東大出のエリート官僚が一流の企業にたかり、一流企業の幹部は不正をしてでも彼らに心付けを送り続ける。子供たちが目指す大学の行く先には、そういう人たちの巣穴が待っているのである。子供たちはそれを知っていながら、親たちに背中を押されて大学を目指すのである。
夢を与えず、現実だけを見て育つと、どうなるのだろう。花が摘まれることを知ってしまったら、きっと花は咲かないのではないのだろうか。それとも毒を持って激しく抵抗を示すのか。
奈良新聞社が神戸震災の義援金を集めて購入したFAXの代金2300万円が、同社会長の関連会社に振り込まれていたということで、会長と社長が辞任した。
しかも、3割ほど割り増していたという。これは詐欺ではないのか。読者の善意を裏切ったという道義的問題だけではない。
こういう輩が逮捕されずに、どうして道義が成り立つのか。紙面でお詫びをして、辞任すれば良いと思っているところが異常なのだ。
検察官や裁判官などが犯罪を犯し、その職を退いた後、ほとんどの場合が弁護士になるそうだ。犯罪者でも弁護士が務まるのである。問題を起こした登記官を辞めさせるために、司法書士の資格を与えることもあるという。その時、当然司法書士の合格枠が減る。
国家は国家に従事する人間の犯罪を恩赦し、しかも権威あるはずの国家資格を与えるのである。国家資格とは犯罪の隠れ蓑としても利用されているのだ。
国家資格を一度取ればその恩恵にあずかれる。犯罪を犯しても剥奪されないため、また同じ犯罪を繰り返すチャンスが与えられるのである。これが馴れ合いの国、日本なのだ。
この2・3日、光栄の「水滸伝・天導一〇八星」(Mac版)をプレイしている。
初めは全く意味が分からなかったが、慣れるに従って楽しくなってきた。しかし、後半に来ても話の起伏がないため、ただ時間を費やしているという具合。徐々に飽きてきた。
何とか皇帝の勅令が下り、東京(とうけい)に進軍できるようになったが、他の好漢が邪魔をする。進軍しても時間切れで勝てないし、その後の反撃を食らうか、漁夫の利を得ようとするものたちが攻めてくる。しかもゲームオーバーの期限が迫ってくる。
もはやここまで来ると二度とやり直そうという気が起こらない。エンディングを見てみようという気だけで、途中経過は面白くなかったからだ。
光栄のゲームはエンディングには力が入っていない。設定とか、マニュアルなどゲームのシステムにはそこそこ知恵を絞ったり、データ収集をしたりしているようだが、肝心の所が足りない。
今度の「三国志VI」は初めて定価を下げての販売となる。15年程前に出た時から14800円だったのが、13800円となるのだ。しかし、これまでも6800円等でパワーアップキットを追加発売したり、マニュアルを薄いモノだけにして、重要なポイントは全て2000円もする書籍として販売する。前回の「信長の野望・将星録」は関連本が6冊程ある。マニュアルもゲームの質であり、価格の内でないと酷いことだ。全うに遊ぶために2万円の出費をしようとは思わない。でも、そのためにゲームの中身を半分も楽しんでないのならそれがいくら安くとももったいないことだ。
ゲームソフトが1万円って高いいんだよね。はっきり言って、1万円札なんて大金なんだぞ。この感覚は小学生の時からあまり変化していない。だから10万円を越えるともう感覚が分からなくなっているので使えるが、2・3万円が考えてしまうところ。
まあ、光栄のゲームに関連するサイトを覗くと、はっきり不満が現れている。基本的にソフト作りは下手な会社だ。ゲームのコンセプトは面白いのだが、システムとしての使いやすさとか味付けがちょっと足りない。ともかく、親切心の薄いところがどんどん出てきている。だいたいユーザー登録はがきに切手を貼ってくれってのが間違い。なんでそこまでしてアンケートに答えにゃいかんのだ。14800円のソフトを買ったユーザーに切手代のサービスもできないような会社なのだ。
それにしても、三国志など看板に頼った商売もその内しっぺ返しが来るだろう。NHKの大河ドラマによって発売するタイトルが決まるという噂は本物だ。「太閤立志伝2」(秀吉)、「毛利元就」(同名)「維新の嵐2」(徳川慶喜)は正しく大河ドラマが始まる時期に発売された。安直にも全作で売れなかったのに続編を作るんだもの。
ただ、三国志に関しては、他のメーカーからも発売されたが、はっきり言ってゴミ同然のソフトが多かった。手抜き、未完成、動作不良などがあったのだ。そういう意味では光栄の三国志は安心のブランドである。しかし、プログラムはどんくさい。
過去の売り上げにあぐらをかかないで、ホームページもやってんだから、ちゃんとユーザーの意見を聞いて、よりよいモノを作って欲しい。けなすための意見もあるだろうが、それは変化・成長を求めているからである。謙虚にユーザーのためを考えて欲しいモノだ。
久々に「ポポラーレ」でイカ墨のパスタ(\900)を食べた。
これを食べると「カーサ・コロニカ」のイカ墨のリゾット(\1800)が食べたくなった。
2月2日から郵便番号が7桁に変わった。まあ、勝手に変わった。
郵便番号の切り替えによって、箕面市は6000万円の税金を費やして納税者への通知書類やその元となるデータベースを修正した。担当者はこれで郵便が一日でも早くなるなら仕方ありません。と言ってたが、実際にはすでに翌日配達ができているのであった。
それよりも、2月1日に電話番号の通知サービスが始まった。これは大いに問題がある。
電話が切れる等ハードの問題もあったようだが、それよりも何よりも個人情報を個人が発信し、それを受け取る側からNTT料金が料金を月200円も徴収するというのはけしからん。30万件だか50万件だかの申し込みがあったらしいが、40万件として毎月8000万円の利益である。しかも、ディスプレイの取り付けで利益を得ている訳だから、実際には内部の工事費用はそれで十分に浮いているのではないだろうか。
情報の受取手には多大な利益がある。しかし、情報を発信している人間にはリスクだけが存在する。危機感のない日本人には分からないようだ。
先日、名簿業者が摘発され、昨今個人のデータはどんな形でも手に入るという状況である。通信販売の商品購入の明細、社長令嬢のリスト、バブル以後でも豪遊する人のリストなど様々なものがあるのだそうだ。個人が自分で情報を管理できない状況が許されている。しかし、名簿というのは即時性がない。1ヶ月後には変化があるはずだから、使える確率は下がる。
それが、電話番号を電話をかけた瞬間に相手に知らせれば、それは紛れもなく最新の情報なのだ。
携帯電話も安心できない。番号が互いに通知されるようになったことはもちろんだが、常に電波を発信しているため用意に所在位置を逆探知できる。そんなシステムもNTTが売り出そうとしている。もちろん誰かれ探知できるようにはしないだろうが、技術的には誰にでも可能なのである。
最早、情報の一人歩きは始まっている。さらにそれが改竄され、暴れ回ることのないようにしてほしいのだが、漏れたデータに対しては自衛策がない。今ここに至っては情報に踊らされないようにするしかないのだ。
見た目で人を判断することは、それらに踊らされやすいということかもしれない。人というのは接してみて初めてその一端に触れるのである。
だから、私は髪を伸ばしてみた。ちゃんと俺の中身を見ないと損するぞ。と、それくらいの自信を持って企業に自分を売り込む自身が付いたからである。
先日、久々にジーンズを買った。エドウィンが好きなのだが、初めてリーバイスを買った。
リーバースは創始者リーバイ・ストラウスのブランドという意味だが、初めは幌馬車の幌を使って作業着を作ったそうだ。それが今のジーンズの始まりであった。そう言う意味ではリーバイスを履くと言うことはジーニスト(ジーンズの好きな人)に取って意味深いことなのだ。
しかし、リーバイスのジーンズは股下が浅い。腰からお尻の下までの長さが、同じサイズのエドウィンと比較すると1インチ(2.35cm)短い。だから、履くとお尻周りが窮屈になり、ポケットに手が入らない。ラングラーも比較してみたが、リーバイスよりさらに1cm短かった。やはり日本人には日本のジーンズが良いようだ。
特に黒のジーンズにこだわっている。だから、真っ黒っていうのはちょっと嫌だ。かといって薄いのも貧乏くさい。しっかりとした黒で荒いウォッシュ(ストーンウォッシュ)がかかっているのが良いのだ。しかし、黒はバリエーションが少ないため形が選べない。腿はワイドで裾はスリムが良いんだよな。
昔はジーンズというとゴワゴワして堅いモノが多かったが、5年程前からか表面を細かく毛羽立たせた、ややヌメリのあるものが出ている。数回洗うと良い具合に柔らかくなる。余り洗うのも良くないけど、買って初めは洗ってからの方が履きやすい。
そんなことで、ジーニストにはそれぞれこだわりがあるのである。こだわり、これ、何にでも大事なのだ。
今日久々にポストを開けた。マンションのポストにはいろんなモノが入っている。宅配ビデオなどはしょっちゅうだが、ついに「オ○ム真○教」の勧誘チラシが入っていた。
「エ○バの○人」のように各戸訪問している宗教法人もあるが、パンフレットを作ってモノみたいに人を集める姿勢にもはや宗教という崇高さはない。と、思っている。これは今でも「エ○バの○人」でがんばってる友達に高校時分に言ったことがある。
まあ、宗教とはいってもまやかしでも何でもない。哲学の一つの形である。自分自身で人生はこうでありたい、人とはこうあるべきだと、信念を持って行動していれば良いのである。それを一々言葉で記すと哲学と呼ばれるだけなのだ。自分の行動を自分で律していれば良いのであって、誰かが見ているからこうしようというのは消極的なことではないか。宗教というのはまさしくそれだ。
宗教は崇高と先に述べたのは神を信じると言う純朴さにおいてである。子供がサンタクロースを信じているのと同じである。
正月に神社へ行って、賽銭を入れて願いを込める。一体誰に何を頼むのだ。自分が何もしなくては何も成功しないのである。だから成功したときには素直に自分のために喜べば良い。どうして他の目に見えないモノに感謝しなくてはならないのか。
だからこう考える。神という存在は人間の生み出した善意の集合体である。要するに、みんなのお陰で私という存在が生かされているという思いだ。それが神という対象物を示すことで、感謝をし恩恵を感じやすくするのである。だから、勘違いしてはいけない。神が生かしているのではなく、他の人々によって生かされているのである。
もっと分かりやすく考えれば、コンビニに行ってそこにアルバイトの女の子がいる。経営者のおじさんがいる。彼らがいるからそこで必要なモノを手に入れることができるのである。だから全ての人に感謝することができるのである。
これを哲学だとか宗教だとかいう必要はないが、結局は当たり前のことなのである。当然のことをもっともらしく書き立て、分析を施したモノが哲学であり、感謝の偶像を持つモノを宗教と称しているにすぎない。
自分で自分の考えで行動していれば、それらは人に与えられるまでもなく身に付いているのである。感謝の念さえ忘れなければ。
スウェーデンでは、小学校のころからダイオキシンの発生するゴミを燃やさないように教育される。もう25年程前から続けてきたのである。
それを日本では今頃になってヨーロッパの800倍も緩やかな規制を設けて、しかも小型焼却炉は規制外などというまったく大きな抜け穴の法律を用意している。欧州では0.1ngという規制値を守れない焼却炉は全て廃止し、当然に家庭の小型焼却炉も全廃したのである。それが80ngで、人体に影響ないから大丈夫だと厚生省の役人は思っているようだ。
欧州で実践できている0.1ngの規制が日本では技術的に不可能だと役人はインタビューに答えていた。方法があるのだから、それを導入することが先決で、人体に少なくとも悪影響がある以上、もっと現実を優先できないのだろうか。
甘くて抜け道のある規制によってHIVの被害者がどれだけ死んでいったか、まだ気が付いていないようだ。50年、100年の未来に胸を張って仕事をして欲しい。そもそも、国政にビジョンがないというのはやってる意味がないのだが。
それにしても、6兆円の公共事業を前倒ししても仕える税金に限りがあると分かっているのだろうか。それとも取れるだけ取ればいいと思っているのだろうか。前倒しで工事発注しても下請け業者が泣くだけだ。工事をしても何もしない元請けが上っ面を持っていって、下請けは半年後にようやくお金を受け取るのが現実。中小業者の資金繰りを悪化させ、倒産を早めることになるだけではないだろうか。そうしてまた、税金を投入する訳だ。
2兆円の減税なんてして欲しくない。一人18,000円、扶養家族一人につき9,000円なんぞ返してもらうより、潔く神戸の震災にあった人たちの生活保障に使ってもらいたい。1兆円もあれば十分なはずなのだ。金融機関の尻拭いに40兆円いるとかなんとか言ってるくせに、小手先で減税やったやろと言われたくない。
役人の大義名分はもはや陳腐で常識を逸脱している。これが日本の指針となっているのも現実である。